協会のお葬式には愛が満ちていた
先日祖父が亡くなり、お葬式があった。
祖父はクリスチャンだったので、式は生前通っていた教会で行われた。
これが本当に素晴らしいものだったので、書き記しておく。
(写真はイメージです。松山協会のHPより)
協会の舞台はたくさんの花で埋まっていた。
そんな中に祖父の棺はあり、彼はその中で眠っているような穏やかな顔をしていた。
90歳を越えての、堂々たる大往生であった。
時間を持って会場入りし、親族であるので一番前の席に座った。
式はパイプオルガンの前奏から始まった。
パイプオルガンの音を聞いたのは何年ぶりだろうか?
下手すると、小学生の頃に行ったクリスマス礼拝以来かもしれない。
パイプオルガンの音というのは不思議だ。
芯はあるが刺がない。アコーディオンのようであり、笛のようでもある。
体の中にすっと抵抗もなく入ってくる、不思議な音色をしている。
協会のパイプオルガンは二階に置かれていた。上から下へ、考え抜かれた音響設計により均等に降りてくる音は、まるで天から響いているかのようだった。
(写真はイメージです。松山協会のHPより)
前奏が終わると、聖書の朗読が始まった。
もちろんそんなに長くはなく、読まれるのは数節だ。
粋なことに、祖父が生前好きだったという場所が読まれる。
我々参列者は、「なぜこの節が好きだったのか?」と考え、自然と故人に思いを馳せていた。
そして、自分なりの答えを見つけると、「ああ、彼らしい節だな」と思い頬を緩ますのであった。
次は賛美歌をみなで歌った。
もちろん、歌うのは祖父が好きだったという曲だ。
賛美歌のメロディーは基本的に簡潔に作られている。
そのため、知らない人でも、2番・3番と歌っている内に歌えるようになってくる。
そしてみんなで同じことをしているという事実は、参列者たちの連帯感を強めた。
実際、みんなの心は一つなのだ。
全員、目的は同じ、祖父を偲ぶために来たのだから。
その後も、この聖書の朗読・賛美歌は数回繰り返された。
聖書の朗読の度に祖父を思い、賛美歌の度に連帯感が強まる。
非常にいい正のスパイラルだった。
また、それだけではなく、牧師による式辞、協会員・親戚からの挨拶もあった。
牧師による式辞は、祖父の人生を振り返るものである。
15分程度をかけ、生まれから最期までとても丁寧に振り返っていた。
だが私は知っている。牧師は前日、祖父の息子たちから4時間に渡り、故人についての話を聞いていたことを。
それを15分に圧縮。なんて濃い15分なのだろうか。
協会員からの挨拶は、祖父が生前、協会において一番仲が良かったという方が行った。
家にいるだけではわからない、協会に行っているからこそ話せるエピソードが満載で、とても興味深かった。
そして、親族からの挨拶も素晴らしいものであったことは言うまでもない。
朗読・賛美歌・挨拶が終わると、最後にご遺体を花で埋め、出棺を見守り式は終わった。
その後は親戚で集まり故人が好きだった店に行ったのだが、それは割愛する。
この協会の葬式を通し、私が終始感じたのが「故人への愛」だった。
月並みな言葉だが、確かに感じたのだ。
故人の好きだった聖書の節を通し故人を感じ、故人の好きだった賛美歌を通しみんなの気持ちを一つにする。
先頭にいたため、参列者の反応を見ることはできなかったが、歌声・雰囲気などから感じ入るものがあった。
協会のお葬式には素晴らしい正のスパイラルがあった。
もちろん、悲しいという気持ちもある。だが、それ以上に私が励まされたような気がする。
本当に素晴らしいお葬式だったと思う。
このような機会を設けてくださった協会に感謝の意を表し、この記事の締めとしたい。
・追記
そもそも、協会のお葬式が「正」になることには理由がある。
それは、キリスト教の死に対する考え方に由来している。
キリスト教において、現世の命というのは「神様からいただいた体に御霊が宿っている状態」らしい。
であるので、死というのは「神様からいただいた体を返し、神の元へと還る『救い』である」ということである。
つまり死ぬことは悲観することではなく、むしろ祝うことなのだ。
そのため、式も全体的に明るくとてもいい雰囲気で行われる、という面もあると思う。